ラッセルのパラドクス先生、だったころのはなし。

 お世話になっている芸大には昔のCOE風情があり、仕事もするが「今日は雑談しにきてたのか!」な日もあったりする。最近はそんな日も稀で、少し寂しい。

 今週の昼食後の短い雑談時間の時、ひょんなことから、いやテレビドラマ『不適切にもほどがある』が話題の発端だったといま思い出しているが、20代の頃に少しだけやった講義の話を久しぶりに思い出して披露してしまった。つい。

 大学が学校ではないこと、自分で自分のことは定義できないこと。そんな与太話をラッセルのパラドクスの説明がてら毎年初回の授業やっていた。思い出がてら話したら、意外にも少し喜ばれた。曰く「いい先生だね」と。

 率直な褒め言葉に素直に嬉しくなった。ドン引きされることもあるので。そんだけの話。

 ただ、その折、肝心のラッセルのパラドクスで使ってきた定番例がすぐに例が思い出せなかったのでメモ。お師匠様からの受け合いだが、「日本語」と「日本人」だった。

 「〜は日本語である、は日本語である」は自分を自分で定義できる述語1だが、「〜は日本人である、は日本人である」は自分を自分で定義できる述語2ではない。述語には二種類あるのだ。では、「〜は自分である」はどうか。この述語は自身を自身では定義できない述語の種類に属する。「〜」に何を入れようと、自分をその「〜」で定義することは不可能なのだ。「〜こそは自分である」といくら考えても、それ「は自分ではない」。でも、がっかりすることはない。「真(正しい)」や「偽(まちがってる)」だってお仲間なのだから3

 ぼくは、このパラドクスの肝は古代ギリシャの哲学者・パルメニデスの言「あるはある、ないはない」に遡れると思っている。ぼくはパルメニデスの言を、人間には己の言語運用上「存在」を二種類しか表現できない、と解釈する。存在にも多種多様なあり方がある4かもしれないのに。例えば「色」にはいくらでも種類を言う(作る)ことができるのに、「音」には五線譜には書ききれないほど豊かなのに、こと「存在」に関してはそうはいかないのだ。「ある」と「ない」しか、ない。想像すらできないけれど「ある」と「ない」の間をどうやって表現すれば良いだろう?「あって、ない」とか「なくて、ある」とか、せいぜいそんな表現しか人間にはできない5

 存在、と同じく、自分も同じ。自分で自分を、言葉を使って定義する6ことは、繰り返すように人間の持つ言葉の性質上、不可能だと考えられる。だから自分探し:自分は何者か?を探さなくても良いのだよ。だって自分で自分についていくら言葉を紡いでも、人間である限り、そもそもできないんだから。それで不安なら、他人に聞けば良い、「ぼく・わたしって何者?」って。色んなことを言われるだろう。よくいう人も悪くいう人もいるだろう。そんなことを繰り返していっても終わりはないけれど、多分、死んだときにそれらを全部まとめるととりあえず、それが自分なのだろう。だから自分探しをしたかったら気の向くまま自由に外に出て、他人と交流しながら、時々言われる「…くん/…さんってさあ」に耳を傾ければよい。

 最後の最後に脱線するけど、「死とは何?」と問われたときの養老孟司の返答が好き。曰く「知ったことではない」。これはわからないから質問に投げやりに答えているのではない。「知ったことではない」とは「知らない」ではない。自分なりに勉強してみたけれど、これまでのところ知ることができなかった、ので(これまでに)「知ったこと」ではない。そういうことなんだろう。ぼくも聞かれたら、いや聞かれることないけど、養老さんのこの言葉をパクろうと思ってる。

 深夜(早朝)に何いってんだ。おれ。

  1. 黒板に「〜は日本語である」と書いて「これは日本語ですか?」と聞かれれば、確かに「〜は日本語である」は日本語だ。日本語が読めない外人にはわからないかもしれない。でもそれは、黒板に書かれていることが日本語ではないということにはならない。
    “〜 is japanese” は japaneseか?ん?これは “japanese” ではないな。あ。でも、”japanese”は「日本語」「日本人」両方を意味する単語だな。 ↩︎
  2. 1.と同じく、黒板に「〜は日本人である」と書いてみよう。黒板に描かれた文字は日本人か?これは日本人にも「日本人ではない」ことはわかる。チョークで描かれた文字列が日本人であってたまるか、である。 ↩︎
  3. ラッセルのパラドクスは、1.、2.から、このように述語には自分自身にとって真なる述語(日本語の例.1.)と偽なる述語(日本人の例.2.)があるところから導き出される。ところで、パラドクスって何だっけ?を定義しておく。真を想定すると偽となり、偽を想定すると真になってしまうこと。これがパラドクスだ。
    ところで真偽(true/false)は上で述べた日本人の例と同じ、自分を自分では定義できないタイプの述語だ。「〜は真である、は真である」か?。日本人の例と同じく、「〜は真である」だけでは真偽もへったくれもない。ただの文字列?音声?じゃん。哲学?論理?はいつも屁理屈こねるガキの味方なのだ。この文章は、偽、である。では、「〜は偽である、は偽である」か?うん確かに「〜が偽である」だけでは、偽とは言えない。ということは、この文章は、つまり「〜は偽である、は偽である」は、真、である。おっと。これは真を想定すると偽:間違った文章になり、偽を想定すると真:正しい文章になる。つまりパラドクスだ。
    ラッセルはここからフレーゲの真理説を論駁したそうなのだけど、それはまた、別のお話。 ↩︎
  4. 既に表現として破綻している… ↩︎
  5. もう一つある。「わからない」である。「わからない」は存在の問題ではないとされているけど。本当にそうかしら。2024年の(間違っている可能性も大の)バージョンアップである。 ↩︎
  6. 「定義」を言葉以外を使ってすることは可能ですか?絵や音を使って「定義」する?可能性はあるかもしれないけど、教養のないぼくにはわかりません。 ↩︎